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矢幡洋の精神医学と心理学

学術的なことをかみ砕いたり、日常生活にお役に立てる知識まで幅広く扱います。これまで出した本の初期稿(出版されたものより情報量は多いです)や未発表原稿を連載しますので、何かしら新しい記事があります。本ブログは他にあり、読み切り本気記事はタイトル・サブタイトルが「|」の形で更新情報をお伝えします

「元の世界に戻して」被虐待児は何とか不登校を乗り越えるが、生まれてきた子供には発達障害の兆候が・・・この部分は9月14日までネット上で無料立ち読みできます!
もし元不登校児の娘が自閉症だったら
「ママなんか死んじゃえ」衝撃の著者家族ノンフィクション! 

「子供を受けいれて待つ」でドツボにはまった不登校問題 | 心理主義の犯罪

 

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カウンセリングは何の役にも立たなかった

 

私の精神が持ちこたえたのは、高校一年二学期までだった。三学期になると、中学三年生の時のような腹部の不快感がひどくなってきた。中学の時は、まだ学校に行かなければならないという気持ちが強かった。ところが、その気持ちが起こらない。学校に行く目的がないのだから。目標が見えなくなったことは、私の気力を崩壊させた。

母親から怒鳴られても、私は学校に行けない日は丸一日家に閉じこもり、憂鬱な感情に押しつぶされそうになっていた。学校に行っても、途中で早退した。疲労困憊して机の前に座っていることもできなくなったのだ。今までの人生の疲労が一挙にきたのだろうか?

とうとう1ヵ月近く、全く登校できなかった。その頃、不登校は精神の病気とされており、家族に県立精神医療センターに連れて行かれた。

矢幡洋・著『病み上がりの夜空に』 【第3回】妻の章―亜空間(その3)---私が、治療者になる?精神の病だらけの人間に、心理療法などできるだろうか | 立ち読み電子図書館 | 現代ビジネス [講談社]

 

それで、僕は妻に聞いてみた。
「結局、精神科医やカウンセラーからたくさん心理療法を受けたようだけど、不登校は改善したの? 」
「い~や、これっぽっちも」
「最近、 『登校刺激』って言うような、登校を促すような働きはあったの? 」
「い~や、これっぽっちも」

「動きが出るまで様子をみましょう」 「本人の気持ちがそちらに向くまで待ちましょう」-自殺行為

 実は、僕は、よくカウンセラーがアドバイスする「動きが出るまで様子をみましょう」 「本人の気持ちがそちらに向くまで待ちましょう」 「立ち直る力を信じて、その日が来るのを待ちましょう」といった耳障りの良い言葉が、何一つ効果がなく、それどころか致命的なところまで不登校を長引かせる元凶となっているのではないか、という気がしていたのだ。

不登校は「ココロの問題」なのだろうか

  理由は簡単である。これらの心理屋さんたちは、 「不登校は、もっぱらココロの問題」というココロ主義をとっていて、その原因たるココロに働きかけようとする方策をとっていたからだ。それが、箱庭療法であろうとも、 「うん、はぁ、うん、はぁ」のクライアント中心療法であろうとも、 「ご家族の話し合いが必要です」と居丈高に宣告する(というか、家族を犯人扱いする)「家族システム論」であろうとも。ココロが原因なのだから、そのココロが変われば行動が変わる・・・。

ココロ主義はもう負けている

  もう、このココロ主義の破綻は明らかとなっている。今年の文科科学省の発表によれば、昨年に比べて、不登校は増えている。子供の数は減っているのだから、割合としては、数字以上に増えているといってもいいのかもしれない。


  まず、何でもかんでも「それは心の問題だ」とする心理主義が、いかにも人間尊重的な美辞麗句を持って覆いつくしているということもある。


  だが、不登校はココロの問題なのか?むしろ、 「生活習慣の問題」など、別の視点を取った方がよほど解決に近づくように僕は思う。

「心が全てを決めている」はもう古い

  「心こそ、人間の格たるものであり、人間の全行動は、すべて心自らが決定している」という「心=自分」論は脳科学の出現によって相当怪しいものになっている。細かい議論は省くとして、 「いちいち自己決定したわけでは無い行動を、あとから振り返って『意志』に従ったものであるかのように後付のストーリーを作る、それが心」というあたりが心の視座だろう。 (僕は、実はジョン・デューイのファンだ。 「周囲と摩擦なく行動が進んでいる限り人間はほとんど判断抜きで自動的に動いており、それが何らかの障壁が生じて、立ち止まって作を練らなければならなくなったときだけ「主体意識」が現れる」という話が好きなのだが。 「オレンジジュースを飲むか、アップルジュースを飲むか、決めたのはこの私だ」と言う人も、 「冷蔵庫の前まで行くときに、右足と左足にいちいち指令を出していましたか? 」と聞かれれば、返答できないだろう)
かつ、この「ココロ」のイメージは、 「傷つきやすいガラス細工」のイメージであった。最優先されるべき事は、まずこれ以上傷つけないように、そっとしておくことだった。 (ちなみに、ある「ココロが原因」と叫んでいる現存の「大家」は、 「まず、家族でじっくりと話し合い、子供の持っている悩みで、親が気づいていないものがあったら、親が謝罪することが第一歩」と書いてあった。僕はびっくりして、その本を書店の本棚に戻した)

それでも「心は 傷つきやすいガラス細工」と言いたがる連中

  心理屋が好きで好きでたまらない「傷つきやすいガラス細工」としての「ココロ」の存在をほとんど認めない(あるいはフリーパスする)心理療法はいくつかあるのだが、それらが主導権を握ることがなかった事は、日本の不登校問題の一大不幸であった。

「心」をバイパスして解決に向かう心理療法もあったのに

  例えば、僕が最も近い解決志向セラピーである。 「原因」を一切追及しない。せいぜい、 「ちょびっと行けそうになった日は、全然行けそうもなかった日と、どんなところが違っていたか? 」と聞く程度である。後はひたすら、クライアントの持っている「強さ」 「価値観」を褒める、褒める、褒める・ ・ ・


  例えば、僕からは少々距離がある応用行動分析。これまた「ココロ」は一切問題にしない。投稿を拒むその前の状況、登校を拒んだその後の状況それを詳しく調査する。 「登校を拒んだその後の状況」に本人にとって何かしら結果的に得になっているような行動があれば、それを除去する。そのかわり、登校をすれば得になるような状況を設定する。

  この点は強調しておきたいが、解決志向セラピーも応用行動分析も一切強制力は用いない。一切、叱らないし、非難しない。ただひたすらに褒める・褒める・褒める。ただし、おだてるのではなく、解決志向セラピーは、大人がその子供に本当にいいところを見つけたら手放しに褒める。応用行動分析は、クリア可能な課題を設定し、それができたらほめる等「必ず」ご褒美を与える。どちらも笑顔で褒めてばかりのアプローチだが、目標を再登校に設定した積極的アプローチである。
不登校問題を解決不可能にした「傷つきやすいガラス細工としてのココロ」はこういう心理学には全く登場しない。

「待っているだけだと取り返しの付かないことになる」って言ってる人は結構いるよ

 「信じて待つ」スタンスがいかに有害であるかは(そういうスタンスの下にあって、何かのはずみで登校を再開した人の存在までは否定しないが) 、この立場に立つ人々の著作で繰り返されている。


「不登校はずっと待っていても、自然になるものではありません。 ・ ・ ・いくら待っていても不登校は解決しないのです」 (森田直樹)


「医師や心理士のなかには、 『子供の前を全面的に受容すべきです』と言う人もいて、これらの無責任な助言のせいで子供の召使いのようになっている親や祖父母と数多く出会ってきた」 (奥田健次)


 少なくとも僕も、不登校に関しては、ずるずると間を空けるべきではないと思っている。時間が経つにつれ、学校復帰は難しくなる。

左翼崩れの「学校不要論」と付き合っている暇はない

 「そもそも、なんで学校に行かなければならないのか」と言う抗議を僕は却下する。この世には、左翼崩れの連中がたくさんいて、この連中は、何らかの社会不適応を起こしている人間こそ、社会変革を起こす救世主である、という福音を説いてきた。大した実行もしていないくせに、社会不適応者を自分の陣営の兵隊に加えようとする連中をぼくは唾棄する。