矢幡洋の精神医学と心理学

学術的なことをかみ砕いたり、日常生活にお役に立てる知識まで幅広く扱います。これまで出した本の初期稿(出版されたものより情報量は多いです)や未発表原稿を連載しますので、何かしら新しい記事があります。本ブログは他にあり、読み切り本気記事はタイトル・サブタイトルが「|」の形で更新情報をお伝えします

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もう一人の私が自分を見ている | 統合失調症ではないんだが、妻の紛らわしい体験

 

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 どうしても真に受けられない解離障害

 自分の中の迷いを述べるだけで、結論は無い。

 僕は、 「解離障害」と言うものに対してずっと懐疑的だった。これはもう論外だが、解離障害の中に昔は「多重人格」なんてのが堂々と載っていて、批判の的になっていた。そんな胡散臭いものには力なので安全。実際、僕が信頼していた精神科医には「解離障害」なんて、いう話が好きな人間はいなかったし。

 

ある統合失調症者の話


 それと、僕にとっては、最も痛切な体験。僕が1番よく知っている長年入退院を繰り返している今はもう老人と言って良い年齢の女性である。この人は、 「統合失調症」の診断を下してそっち向きの強い薬を処方する精神科医の下ではよくなった。 「ヒステリー」の診断を下して軽い薬しか出さない精神科医のもとで確実に悪くなった。そして後者に限って、そういう診断を口にするとき、得意げな顔をしていた。 「統合失調症とずっと誤診されていたのを、この俺様が『本当は、ヒステリー』と見破った・ ・ ・とでも言いたかったのかね。そして、患者の病状が悪くなると、自分の診断を再検討するのではなく、周囲に「治療を妨げている」悪者を探した・・・ところで、その女性の統合失調症の初発の時の体験はこんなものだったらしい。(全て仮名)

世界没落体験

そして更にその向こうの高縄山のすそに広がる明るい森の中で、萌は発病した。今から十七年前の秋、俺の知らない女子大生がこの森に誘われるように入り、あたりは色づいた木々で夢の魔法のような美しさで、空も日本晴れであったし、そこが煩悶の終わりであるかのような晴朗な気持ちで萌はしばらく歌などを歌っていた。しかし、黄昏が迫り始めると、世界は急に相貌を変え、禍々しい夜の闇が捉えようとしていることがわかったのだ。そして萌は泣き出したが、どちらに進もうとも一歩ごとに、どこに行こうとしていたか分からなくなるし、どの茂みの背後にも何かが潜んでいるようで、それは今でも忘れられない地獄のような時間であった。どこをどう歩いたのか分からなかったが、車道にようやく出たときには、あたりは闇の中に没しようとしていて、歩いている人々の顔も、背広の上に豚の頭がついていたり、犬がブラウスをまとっていたりしているようにしか見えなかったのだ。萌は泣きながら地獄のようなその世界をさまよいその晩は留置所のつめたく固い床の上で寝て、それから多賀病院に入院したのだ。
 「世界は、世界は美しい」その言葉を多賀病院で繰り返して言っていた、と萌は記憶している。なぜか、萌は看護婦たちに可愛がられた。退院間際になるころには自分の恋の悩みまで打ち明けて相談を求めてくる看護婦さえいたというのだ。-俺は、それはそうだろう、と萌に言った。萌はたしかに多くの人に、混じり気のない善意の存在を感じさせるものがあるのだ。

どちらも「知覚異常体験」ではあるのだが

 これは、統合失調症の発病に現れることがあるとヤスパースが指摘した「世界没落体験」である。
  悪夢のように世界が変貌していくその前に、 「世界が良いように美しく輝いて見える」体験が先行したのだ。いずれにせよ、それは僕たちが通常目にしているものが別ように見えるという異常知覚体験である。

 さて、それで、僕の妻の場合。

離人体験

 ほんのついさっきまで、そこはなじんだ私の部屋だった。しかし、私は、時計の音が一二回鳴るうちに、別の場所に落ち込んでいた。馴染みという感覚は完全に払拭されていた。ノート。蛍光灯。教科書。鉛筆。見慣れたはずなのに、それらは見覚えがない奇妙なものへと変貌していた。

落ち着いて。これは、それが仕掛けた罠。いつもの自分の部屋から一歩も出ていないじゃないの。心の一方が叫ぶ。だが、その一方はあっという間にそれに占領されていった。それが作り出した、この世とは別の次元の亜空間。何もかも見知らぬものたちに囲まれて、私はたった一人の異邦人だった。

私は、机に投げ出された自分の腕を見た。腕までも見慣れないものになっていた。「私の」という感覚がなかった。見知らぬ物体のように、それは無造作に転がっていた。恐怖を感じた。自分がなくなってゆく!自分の体までが、無機質な物体と化していた。魂はおびえながら、荒涼としたその場所に閉じ込められていた。この机の上の腕は再び動くのだろうか?動くとしても、それは奇妙なメカニズムによって、ロボットの部品のようにかたかたと動くに過ぎないのではないか。
元の世界に返して!

だが、世界は動かなかった。すべてが凍り付いていた。
ただ、恐怖だけがあった。もうだめだ、このまま私はそれの世界に閉ざされてしまう。

矢幡洋・著『病み上がりの夜空に』 【第3回】妻の章―亜空間(その3)---私が、治療者になる?精神の病だらけの人間に、心理療法などできるだろうか | 立ち読み電子図書館 | 現代ビジネス [講談社]

 嫌いなんだよ「解離障害」って言葉は

 これも、異常知覚体験ではないか、と言われたら「多分、そのように分類することができるだろう」と言わざるを得ない。ではこれは、統合失調症の異常知覚体験なのか?
 そうではなかったのだ。では何だったのか?僕の嫌いな「解離性障害」に見られる「離人症体験」であり、 「分身体験」なのだ、とすると話が落ち着くので困ってしまうのだ。つまり、僕は、最初にあげた女性を「解離性障害」とする医者たちに悩まされてきたのだ。

 

分身体験としてあっさり片付ける 安永浩

 安永浩は「分身体験」として説明している。
「行動している私を、別の私がどこかで見ている」というような形で表現される。 ・ ・ ・これはある特殊心理状態においてはほとんど実体的な幻視の域に達する。すなわち自-極は自分の身体から離れ、さながらまなざす目だけという霊的存在になり、身体を備え、行動をしている具体的な自分の姿をありありと見る。 」
安永浩は、このような体験は高熱、疲労の極限、パニック、その他の疾患に関連して一過性に起こりうるもの、として「統合失調症よりはむしろ意識障害との関連が深い」としている。

統合失調症にも解離障害にも幻覚幻聴はあると昔から言われてはいるが

 柴山雅俊は『解離の構造』で、統合失調症初期にも、彼の言う解離性障害の中にも、このような幻覚にも似た異常知覚体験が見られるという。その両者は紛らわしい、としている。最初にあげた統合失調症の女性をヒステリーと診断した医師たちはこういう主張が好きなのだろうか。統合失調症を解離性障害と誤診することの方が危険が大きいように思うが(柴山雅俊は解離性障害の場合は、二重化した世界に対して「それが何なのか」という疑問を持たないが、統合失調症の場合は異常知覚に対して「これは、宇宙人の仕業か?」などと解釈しようとするところに大きな違いがある、と指摘しているが)。
  これに対して安永浩は、 「 1人の私がもう1人の私を見ている」という感覚はを特に病的なものとして大きく扱っている訳では無い。

結論が出せません


  今のところ、私には安永浩の指摘の方がしっくりくる。それでも、長年避けていた「解離性障害」と言うものを(2重人格だのなんだのはともかくとして)全く避けて通るというわけにも行かなくなってしまった。非常に歯切れが悪いが、今の段階で、割り切って説明してしまうよりはましだろう。